冬来たりなば春とうがらし

これまでに経験した困ったことと、その解決法らしきもののまとめ。あと読んだ本。

平成にあった「昭和の大学」の墓標 番外編 学部の愛称(?)

私が学生だった頃、京都大学の学部で愛称があったのは(筆者調べ)

理学部:就職ムリ学部

工学部:おとこう学部

経済学部:パラダイス経済学部(通称パラ経)

法学部:あ法学部

他にもあった気がしますが、思い出せない(よる年波

平成にあった「昭和の大学」の墓標 3 「厳しく」なったカリキュラム

 志望校だった京都大学理学部になんとか入学できたわけですが、とくにやりたいことや勉強したいこともなく、のほほんと暮らしたいと思っていました。その頃の京大理学部は(それまでと比べて)カリキュラムが厳しくなったと言われており、私も先輩方から「厳しくなってから入ってきてツイてないのう」とか言われたもんです。

具体的には、
1 語学の単位と理系科目の単位がある程度揃ってないと、3回生で「系登録」できない。 「系登録」とは数学・物理・化学・生物とかの各「系」に分かれる、学科配属みたいなものです。「系」に登録できないと、必修の学生実習(演習)が履修できないので、ほぼ留年確定となります。 以前は単位がとれてなくても、系登録できたそうです。
2 卒業研究が必修になった。 以前は卒業研究しなくても卒業できたのが、何かしらの研究をしないといけなくなりました。ちなみに、卒業論文を書く必要はなく、私も数枚のレポートを書いて、所属した研究室内でその内容を発表して終わりでした。
という「厳しい」ルールが作られて2,3年経ってたと思います。

 のほほんと暮らしたい私としてはありがたくない話でしたが、実際のところは、
1 ある程度の単位といっても相当甘い基準で、しかも語学以外については「楽勝」「仏」などと学生間で言われる授業・先生があり(おり)、授業に行かなくてもレポートを提出したりテストを受けると、単位がわりと簡単に取れたのです(私みたいなダメ学生は「単位が降ってくる」と言ってました)。語学はもう少し(だけ)大変でしたが、こちらもいろいろありまして・・・(後述)。
2 あまり詳しくはかけませんが、それほどリソースを割かなくてもできる「卒業研究」を選ぶことができ、研究室選択さえ間違えなければ、この単位が取れず卒業できないということはなかったです。私が3回生時に生物系の学生実習でペアを組んだ同級生の一人は、SE的な仕事をしてたバイト先にそのまま就職することにして、「大学では何もしないことにした」と言って、生物系登録でしたが卒業研究は某数学の研究室で「行って」、卒業・就職していきました。
 といったもので、他大学と比べたら無きに等しいハードルではありました。

 大学に入ってから、知り合う人知り合う人が異口同音に「とにかく語学の単位だけは取っとけ」というので、それ(だけ)を胸に大学の授業に臨むことになりました。一回生のときは語学(といくつかの理系科目)は、履修する授業が決まっていたので、ひたすら「やさしい」先生に当たるように祈るばかりでしたが、おそらく標準の厳しさの先生方が担当でした(英語2科目、ドイツ語2科目)。どの語学の授業も2回に1回か、3回に1回か、4回に1回くらいは出席したと思いますが、努力不足でぜんぜんついていけないまま夏に前期の試験をうけて、英語の一科目が20点だったことをものすごい覚えてます。周りを見渡して、10点の奴(いわゆる類友)をなんとか見つけて、そいつと仲良くなったら、後日某宗教の集会に誘われたことはいい思い出です。で、その10点ボーイと先生のところに行って、「もし後期の授業全部出て試験何点だったら単位取れますか?」と聞いたら「う〜ん7,8割」と笑顔で答えられて、目の前が真っ暗になりました。目の前が真っ暗になったわりに、後期も虫食い出席で試験もぶっつけでしたが、単位が出ていたときの嬉しさは忘れて久しいです。

 語学以外の履修はどうだったんだ、とお思いでしょうが、これはこれで昭和な話があるので次回

平成にあった「昭和の大学」の墓標 2 「昭和の大学」に入るまで

 いきなり私事になりますが、私は大阪の某ニュータウンで生まれ育ちました。両親は共に高卒で、おそらく「生まれた時点で大学進学が選択肢になかった」人生だったと思います。私はなぜか学校の成績がよくて、地元でいちばんと言われる公立高校に進学しました。両親は大学のことはまったく知らないので、地元でいちばん「いい大学」と言われていた大阪大学に行けたらと思ってたようですが、私は高校の部活のワルい先輩からの「京大のほうが入ってから楽やで」という甘言に乗って、京都大学への進学を目指すことにしました。高2のときに、文系・理系の選択があり、理系科目のほうが楽しかったので理系を選びました。そのとき親からは「ええけど理系の大学行くんやったら、国公立しかあかんで(学費が理由)」と言われましたが、まあそうだろうなと思っただけでした。
 なんやかやで自信満々で京大理学部を受験しましたがあっさり落ちて、通ってた高校の近くのローカル予備校に通いました。その予備校では特待生待遇で学費がとても安く、私大の文系学部に通っていた兄の学費でヒーヒー言っていた両親は、「正直浪人してくれて助かった」と思ったとのことです。で、運よく一浪で京都大学に合格することができ、ちょうど兄が大学を出て(氷河期でしたが)就職したので、実家の家計はかろうじて回ったみたいです。

 やっと「夢の」京大生活を説明するとこまできました。

平成にあった「昭和の大学」の墓標 1 プロローグ

 無事、元号が令和に変わりましたが、平成の30年間で大きく変わったものの一つに大学があります。かつての大学はレジャーランドなどと揶揄されつつも、高校まで存分に詰め込み教育を受けてきた学生たちに、それなりに羽根を伸ばす(伸ばしすぎることも多々でしたが)4年間を提供していた気がします。対して今は、学生自身も学費を出す親たちも、学費(投資)に見合った「かっちりした」教育(リターン)を提供することを大学に求めている、と感じます。かつての大学にも多くの批判がありましたが、今の大学にも「高校までの管理教育の延長ではないか」「これで自主性・自活力が育つのか」と批判することはできるのかもしれません。とはいっても多数派の人々が求めてきたのが、今のかたちの大学なのでしょう。

 私は、2000年代中盤から大きく大学が変わったと考えておりまして、よくもわるくも昔の(「昭和」な)大学の姿はすでにだいぶ忘れられてる気がします。そこで一つの墓標として、1990年代終盤に当時の基準でも図抜けて、よくいうと「自主性に任せた教育」を実践し、悪くいうと「ヌル」かった、京都大学の理学部で、同級生300人と比べてもだいぶ自堕落に過ごした空気感やそれを許容していたシステム(?)を記しておこうと思います。

 この手のネタは、ある種の怒りを買うことがありまして、とりわけサボり自慢(俺は全然勉強してないけどテストの点は良かったぜ〜的な話)や学歴自慢をしたいのではありません。また、現在の大学のしくみやカリキュラムに物申したいわけでもありません。ただ、平成の時代にもこんな「昭和」な大学があったんだ、ということ(おっさんの思い出)をつらつら記そうと思います。

ハイネックの服

久しぶりの記事。

 

ハイネックのセーターとか、シャツとかわりと好きです。というわけで、ハイネックの服のいいとこと悪いとこをまとめてみます。

 

いいところ

首筋がぬくくなる

中にヨレヨレのTシャツとか着てもばれない

 

悪いところ

首が絞まる感がある

首周りの汚れが洗濯でなかなかとれない(とくにおっさんになると

 

ハイネックの服のほかに、中のヨレヨレ下着を隠せる服の種類を誰か教えて下さいm(_ _)m

変わっていくものと残るもの

 去年に引き続いて、若くして亡くなられた友人のご両親にお会いしてきました。ちょうど盆だったため、お母さまからは「こっちに帰ってきているときに会いに来てくれて・・・」と歓待していただきました。昨年と同様、お仏壇の友人にお参りしたあと、お母さまに頂いたお茶とお茶菓子を楽しみながら、お父様から昔のことや近況を伺いました。

 仕事(接待)で覚えたゴルフを半引退した今も続けていて、お会いした前の日も18ホール回ってきたこと(体の健康によさそう)、麻雀もたまにすること(アタマの健康によさそう)。現役の頃は、会社では営業の仕事だったため、一年365日のうち250日は飲みに行き、土日はゴルフで、亡くなった友人を含むお子さんたちと触れ合う機会がとても少なかったこと。ただ、お父さまが子供の頃は、子が親に遊んでもらうようせがむような文化はなく、お父さまが子を持つ頃に親子(父子)コミュニケーションなどが急に言われ始めたそうで、触れ合う機会が少ないというのはとくに珍しいことではなかったこと。
 お父さまが働き始めた頃は、一年で給料が五割増とかに増えていく時代だったこと。その分、お子さんが亡くなられたあと遺品の中の(労働)契約書を見て、給料の少なさ、福利厚生の乏しさ、昇給のなさに驚いたこと。返済が終わってない奨学金の証書が3つも出てきて震えたこと(いくつかは、事情を伝えると返済免除になったそうです)。給与と奨学金については、昨今のアカデミア業界の問題点を凝縮したような話で、私はただ頷くくらいしかできませんでした。昼夜もなく休日も返上して、実験動物の解析や世話にあけくれる我が子に何もしてやれなかったこと。 などなど伺いました。

 昨年も昼をごちそうになりましたが、今年も「おいしいスパゲティ屋さんがあるんで行こう」とお父さま運転の車で近くのお店に連れて行っていただきました。そのお店には週一くらいのペースでご夫婦で通っているそうで、おすすめのランチコースを頂きました。友人が亡くなって2年以上経ち、正直なところ私の記憶もディテイルを失い始めており、友人が生前味わったであろう苦労・鬱屈を慮りながら私の研究に関わる四方山話や研究する上でのつらさ悲しさなどをお伝えしました。お母さまからは、「我が子と同じ世代の人から、日ごろ知ることのない話を聞けて、自分の子供と話しているように楽しかった」と言っていただきました。伺う前は、どういう話をすればいいのか迷うところもあったのですが、お会いしてよかったな、と感じました。

 スパゲティ屋さんからの帰り道、お母さまがふと「子どもががんばってがんばって取り組んだことも、死んでしまったらなくなってしまう」とおっしゃったので、とっさに「研究の場合は、どんなことでも、行ったことはずっと残ります。それが研究のいいところだと思います」とお伝えしたら安心されたようでした。 ただ、例えば自分が行ってきた(いる)ことも本当に残っていくものなのか、と自問した場合、自信を持って肯定することはできず、その場限りのなぐさめとのそしりは免れない、とあとで思いました。

 今年も昨年と同じく、ご両親の心の平穏を祈りながら帰宅し、その数日後には自分の老いた両親の住む実家に向かったのでした。

押して、引く

 先日、久しぶりに友人の結婚式に出席しました。結婚式に出るたび思うことは、多くの人に祝福されるというのはいいものだなあ、ということです(月なみですが。生きていて辛いことがあっても、人に祝福された経験を思い出すことができれば、乗り越える糧になることもあるのではないかと思ったりします。

 また今回は、これも久しぶりですが、結婚式二次会パーティのお手伝いをさせていただきました。私は怠惰な人間ですので、ほとんどの仕事を人任せにして、大変楽させていただいたのですが、ここで一つ、仕事の流儀()について一言二言三言述べようと思います。多くの場合、この手のパーティは新郎友人と新婦の友人とか、学生時代の友人と社会人になってからの友人とか、これまでとくに関係性のなかった人(いわゆる他人)同士で作り上げていくことが多いと思います。また、学生の時ならともかく、社会人になってからだと打ち合わせや準備に多くの時間を割くことが非常に難しく、限られた時間で「うまく」お祝いできるようにする必要があります。これがなかなかの難題であったりするわけですが、そのためのポイントとしては、

1 仕事の割り振りをきちっとする。
 上にも書いたように、打ち合わせを何度も綿密にするというのは難しいですので、各人の担当を最初に割り振る(新郎新婦が割り振るのがベストでしょう)と、それぞれの人が裁量・予算の範囲内で空き時間に自由に動けるので、準備時間が短くてもスムーズに体裁を整えることができると思います。注意するべきは、仕事を割り振ったあとは、隣の庭が気になっても自分の担当外の事項に口をだすのを慎むこと。たとえ、他の担当の人から意見を求められても、せいぜい一つ意見なり要望を出すくらいがいいかと思います。パーティの準備に限った話ではありませんが、あることを人に任せたあとに、どれだけ口を挟まずにその人の仕事ぶりを見守れるかが、ひとの度量というものでしょうか。また、ある事項について強固な意見を言う人がいた場合、その事項にどれだけ思い入れがあっても、歯を食いしばって(対決するのではなく)何も言わずに「引く」ことも時には必要でしょう。

2 みんなで決めることは、大枠→detail
 とはいっても、個々人では決められないこともいろいろあり、そういうのはみんなで決める必要があります。その際重要なのは、物ごとを大きなものから小さなものの順番で決めていくこと。方法論としては、detailを積み上げて全体を作り出す、というのもあるのですが、まずこのやり方はものすごい時間がかかります。おそらく結婚式二次会パーティでも3ヶ月は必要だと思います。また、detailを組み上げる場合は、案をボツにする勇気が必要になります。つまり、detail Aとdetail Bがどうにもフィットしない場合は、ムリヤリ双方を融合させる方策を練るのではなく、どちらかを捨てなければいけないということで、これは精神力を使いますし、下手すると空気が悪くなります。それに対して、大枠を決めて、中枠、detailと詰めていく場合は、それぞれのdetailは枠に合うものを選んでいくので、案を出してからボツにする必要が出てくることはまれです。まあ、大枠から決めていく場合、たいてい安全パイな選択肢を選んでいくので、悪くいうとありきたりなものになってしまうことが多いのが難でしょうか。また、detailから決めていくと、うまくハマった場合はものすごく素晴らしくまたオリジナリティに富んだものができあがる可能性がありますが、なかなか難しいです。

 まあ、人にいったん任せた仕事はきっちり「任せる」ことと、物事を大枠から決めていく、ということは、(お金が発生しようがしまいが)あらゆるタイプの「仕事」で重要なことだと思います。