冬来たりなば春とうがらし

これまでに経験した困ったことと、その解決法らしきもののまとめ。あと読んだ本。

令和に「大人」を育てる、とは

めっちゃ久しぶりのブログ投稿です。

研究所から大学に移って3年半くらい経ちました。前職は、基本大人ばかりの環境で、他人を育てるというよりは自分がいかに育つか、ということを考えるところでした(間違っているかもしれません)。対して現職は、「大人」から大人になろうとしている大学生・大学院生を「育てる」ことが(少なくとも建前としては)第一の業務(責務)となっています。とは言っても誰かが「育て方」を教えてくれるわけでもないので、自分が育てられたやり方とかを参考にさぐりさぐりやっていく感じです。3年半探った途中報告をまとめてみました。以下、現職に近い環境(教育と研究を両立することが求められる、大規模非指定国立大学の理系学部・大学院における学生に対する研究指導)を想定しています。

 

1 「育てる」なんてできない

いきなり前提を全否定するタイトルをつけました。昔も今も大学は大人になる過程のモラトリアム期間(機関)だと思いますが、研究を始める頃ともなれば20歳も超えていますので、自我は確立されています。もちろん可塑性はまだまだ備えていると思いますが、他人が介入して半強制的に「キャラ変」させることは不可能でしょう。かつて(平成中盤くらいまで)は「オレのいうことが聞けないというのか」的な、脅しによる指導もできたのかもしれませんが、令和の今日ではそのやりかたは固く禁止されています。つまり就職氷河期世代の我々(誰?)には、自分が学生の時に受けた指導方法を、自分が指導する側になった時にそのまま適用すると「アウト」になるというトラップが待っています。もちろんアウトかセーフかなんて関係なく、脅しによって他人の行動をコントロールすること自体に(長期的にみて)生産性があるのか、という問い・疑いもあるでしょう。

というわけで、半強制的に他人に介入する指導はルール上・倫理的にできない、とするとどうすればいいのでしょうか。もしカリスマ性があれば「ほれてもらう」「信者にする」というやり方もあるかもしれませんが、私を含め普通の人にはこのアプローチは無理です。どうしましょう。

私が3年半ほど探って思ったのは、指導する側にできることは、もの・環境・考え方などを提供すること(だけ)ではないかということです。提供された(「育てられる」)人が、意欲・気まぐれ・同情心で提供されたブツを受け入れた場合、ある確率で育つ(またある確率で退行する)。つまり、他人が育てることなんてできなくて、本人が育つことがほぼ唯一の道ではないかと思っています。なにを提供されても、本人が(理由はなんであれ)それらを受け入れない場合は、何も変わらないか自分の内部から湧き上がってきた何かによって自己変革が起きるかのどちらかしかないと思っています。

 

2 比喩表現

いいたいことを比喩で表現します。「指導者」ができることは、手持ちの材料からいろいろな料理を作って、「指導される人」の周りに置きます。これだけが指導者のできることじゃないかなと思っています。指導される人は、意欲・気まぐれ・同情心などのモチベで、周りに置かれた料理のうちいくつかを食べます。その料理が自分に合っていたら成長しますが、合っていないと食あたりを起こします(このことを大学では「ミスマッチ」と呼んでいます)。周りに置かれた料理を一切食べない場合は、何も起こりません。つまり成長する可能性のある行動をとる(あるいはとらない)のは、指導される側の意志によるのであり、指導者の意向ではないと思っています。もちろん指導者の多くはせっかく作った料理をぜひ食べてほしいなあ、とは思っているでしょうが・・。また、どんなにステキな料理でも、指導者が指導される人の口を無理やり開けて詰め込んた場合は、きっとおいしく思わないし高い確率で消化不良を起こすでしょう(ルール上も禁止されています)。

 

3 できること

おいしそうな料理をたくさんの種類作ることができる人は、きっといい指導者になれるのでしょうが、私を含めた普通の人にはなかなか難しいです。なので、できることとしては手持ちの材料と自分の調理テクを駆使してとにかくたくさんの種類の料理を作って、指導される人の周りに置いてみて、食べてくれるのをじっと待つことだけなのかなあ、と思う今日このごろです。

それでも何も食べてくれない、あるいは食べた後具合悪そうにしている場合はどうするか? それについては現在研究中です・・・