冬来たりなば春とうがらし

これまでに経験した困ったことと、その解決法らしきもののまとめ。あと読んだ本。

平成にあった「昭和の大学」の墓標 8 単騎のタンクロウ

前回に書いたように、3回生となった私は無事(?)希望した生物系に配属されました。ところが、私は高校のときに生物を選択しておらず、また大学に入って以降ほとんど勉強しておりませんでしたので、ほぼ何も知識のないまま(DNAとRNAの区別もあんまりついてないレベル)著名な先生方による格調高い(?)専門科目の講義や学生実習に裸単騎で突撃することになり、いろいろな事故もとい悲劇もとい喜劇を味わうこととなりました。恥を忍んでいくつか例をあげたいと思います。

 

1 鬼の分子生物学講義(2回生向け)
 さすがにあまりにも基礎知識がない自覚はありましたので、サークルの友人から高校生物の教科書を借りパク(しかも読まず・・・)し、2回生向けの分子生物学の授業を受けることにしました。当時の理学部の学生は大半が高校生物を選択していなかったため、系登録(学科配属)前の2回生向け授業なら知識ゼロの私を引き上げてくれるんじゃないかという、超甘い期待をもっておりました。当時はバイオ人気全盛で比較的大きめの講義室が埋まるくらい受講者がいました。その講義の担当は、当時「鬼」と(影で)言われていた著名な先生で、ちょうどその先生たちが新しい教科書を出版したときでしたので、その本をとりま買いました(その後大学院入試までほとんど読まず)。
 で、ピュアな2回生にまみれて落ちこぼれ3回生(私)が出席した初回講義での某先生の最初の一言が「今の時代にタバコを吸っている人はダメ人間ですよ」でした。つづいて、タバコがいかに健康に悪いかを生物学的な側面も含めて時間をかけて説明されたのですが、いわゆるミクロ生物学の基礎知識を教えてくれると思っていた私にとっては「???」と思うばかりでした。で、その話のオチ(?)が「まあ私も30代までタバコ吸ってたんですけどね」というもので、さらに「????」となりました。私は当時も今も非喫煙者で、タバコは好きでないですが、分子生物学の授業のつかみがコレというのにはド肝を抜かれました。その後は、教科書に沿った講義が続き、説明もとても丁寧で、ノー知識ノー努力のダメ学生だった私にもとてもわかりやすかったです。ただ、ちょくちょく「京大のこの分野の研究はダメだ」みたいなディスりが入るのはややアレでした。
 講義の中で「生物学の研究者になるのなら、若いうちに一度はここまでならできるという限界まで頑張ってみるべきだ」というお話があり、その時はナンノコッチャでしたが、数年後に大学院生として研究する過程で身をもって体験することになり、やはり偉い先生は偉いのだなあ、と思ったりしました。

 

2 発生生物学(3回生向け)
 なんにも知識がないため、どの先生がスゴいとかそういうことも全く知らなかったのですが、先輩に「竹市(雅俊)先生のところには、ノーベル賞発表の時期に毎年マスコミが来るねんで」といわれたので、ミーハー気分で竹市先生の発生生物学の講義に出ることにしました。カドヘリンはおろか発生生物学がなになのかも知らないまま専門科目をうけるという暴挙でしたが。教科書は確かGilbertのDevelopmental Biologyの原書だったと思います(買いましたが、たぶん2ページくらいしか読んでないと思います)。当時はまだパワーポイントはあまり一般的じゃなく、竹市先生はOHP(懐かしいですね)で図を写しながら、黒マジックで補足説明などを(板書的な感じで)書き込むスタイルでした。おそらく教科書に書いてある基礎知識に、最新の研究成果を補足されていたのだと思うのですが、書き込みがほぼ全て英語のため、なんの予備知識もない私には格調高すぎて厳しかったです(努力不足を棚上げ)。書き込むときに、「この仕事はXXX年のYYY et al.ですね」とか言われるのですが、アホの私はこれが論文のことを言っていることすらわからず、「書き込みの文字が達筆すぎて読めんな〜」と思うばかりでした。ですが、たまに竹市先生が「このXXX年のYYY et al. 読んだ人?」とか聞くと、教室の前の方に座っている15人くらいはいつも手を上げていましたので、やっぱり優秀な学生は研究始める前から原著論文とかチェックしてたんですね。スゴイ。
 そんなわけで自分の能力不足のため、レベルの高い講義をあんまり消化できず(単位はギリいただきました)、数年後に竹市先生は理研CDBの初代所長として移られました。さらに何年後かに、なんのコネもないとある財団の奨学金に採択されるという奇跡が起きまして、その財団の評議会メンバーで私が知っている人が竹市先生だけでしたので、いまも勝手に感謝しております。もちろん、竹市先生はわたしなんぞご存じないでしょうけれど。

 

 次回に、学生実習での事件をまとめて最終回としようと思います。

むかし書いた文章

数年前に友人夫妻が結婚された際に書いた駄文を見つけたので紹介。名前の部分は伏せ字にしました。

 

そして伝説へ

 

Xさん、Yさん、今日の良き日にすばらしい式を挙げられましておめでとうございます。これからよりいっそう素敵なご家庭を作られていくことを楽しみにしております。・・・といったマジメな文章を期待されているのではなさそうなので、せんえつながら小話を少し。

今日のこの会はお二人の挙式をお祝いして、結婚にまつわる「学会」という体裁で行われることになっています。ですが、学会とは一体なんぞや?という方もおられると思います。そんなことは特に気にせず、表紙から美しく彩られたこの冊子を眺めつつ会を楽しみ、「楽会」として頂ければと思います。そもそも、この「学会」長にまつりあげられている私が結婚していないという出オチ状態なのですが、それもまた、この会への至高の味つけになればと、ネタの美食倶楽部会員として期待もしています。また、既婚者の方々からの、結婚生活へのすばらしいアゴナイズ、ではなくアドバイスもありますので、本筋についても万全となっております。

さて話は飛びますが、Apple社の創業者で、いまや伝説の人物となったSteve Jobs氏の好きな言葉に"Stay hungry, stay foolish."があります。この言葉を和訳するのは難しいですが、あえて訳せば、「わんぱくでもいい、たくましく育ってほしい」となるでしょうか。YさんXさんは共にわんぱくもといタンパクの研究者なわけですが、他の仕事同様、研究の仕事もやりがいがある一方でなかなかストレスも多いかと思います。そんなこんなで、もし必要以上に肥えてしまったら、stay hungryを心に留め、気分が落ち込んでしまったらあえてfoolishにふるまうことで、乗り越えていけることでしょう。他にもこれからさまざまな困難があろうかと思います。たとえば外国で乗るべき飛行機を目の前で乗り逃してしまったり。そういうときは一人だとすぐイッパイイッパイになってしまいます(経験者談)が、夫婦で互いに助けあい、時にはここに集まられた先輩・友人の方々にも助力を願うことで、困難を困難ともせず楽しく過ごすことができると確信しております。ご両人がどれだけステキな(素の敵と書いてステキと読みます)方々に囲まれているのかも、この冊子の記事から伺い知ることができます。

スペイン生まれジャングル育ち(悪そうなネタはだいたいこのあとの記事を参照)の、ご夫婦の愛情がこれからいっそう高められ、伝説レベルにまでたくましく育っていくことを祈念してやみません。またこの冊子の作製をはじめ、この会を企画・運営された方々の気構え・がんばりに深く感謝致します。そして今回出席された方々の新郎新婦への熱い思いと、この会が結実するに至ったお二人の魅力・人徳への尊敬の気持ちを表して、この拙文を締めたいと思います。

平成にあった「昭和の大学」の墓標 7 秋風五丈原

 私が大学生だったほぼ20年前の京都大学では、「連休後に秋風が吹く」と言われてまして、5月の連休が終わるとキャンパスから人の気配がなくなり、授業の出席率もグッと低下してました。聞くところによると、10年ほど前から連休後もほとんど出席率が変わらなくなったそうです。私も当時の例に漏れず、一回生の5月からほとんど大学に行かなくなりました。ところが、一回生時に単位が思ったより取れ(卒業単位の半分くらい揃いました)、また二回生のときは前回紹介したように語学の授業に恵まれたこともあり、さらに学校に行かなくなりました。たまに(遊んで)徹夜明けなどに気まぐれで1コマくらいポツポツと授業に行く程度でした。
 そうこうしている間に、本当の秋風が吹く季節になり、そろそろ私も3回生からの専門課程のことが気になってきました。3回目の記事に書いたとおり、3回生から系登録という学科配属みたいなものがあり、物理や数学などおおよその専門分野を決めることになっていました。大学生になってから勉強らしい勉強はしたことがなく、どの「系」でも全くやっていける気はしませんでしたが、一つ選ばなければいけなかったので、「生物」を選びました。

その理由としては、
1 4回目に書いたように「サル学の現在」に感銘を受けていた
2 生物なら難しい概念を理解していなくてもやっていける気がした
3 当時は高校生物に分子の話があんまり入ってなく、高校で生物を選択しなかった私でもビハインドが小さいと思った
4 当時はいわゆる「バイオバブル」の真っただ中で、バイオを学んでおけば将来が開く気がした
と、1はともかく他は噴飯ものというか、無根拠で無知のなせるヒドイものでした。

 で、そういや系登録の説明会があるとか言ってたな、と思って久しぶりに大学に行き掲示板を見ると(当時はインターネットがまだ活用されておらず、大学に行かないと情報が得られませんでした)、説明会の日程を記した紙が貼ってありましたが、説明会は終わっていました。ちょっと残念に思いましたが、どのみち行ったところでどの系が向いているのか分かるとも思えませんでしたので、希望する系を書いた紙を事務に提出する日だけ覚えて帰りました(授業に行けよ)。
 結局「生物」登録で希望を出したのですが、当時は上述のように生物学が人気があり、希望者が定員オーバーしてしまい、生物希望者は「自分のやりたい研究」みたいなレポートを提出し、その内容で定員まで絞ることになりました。私は確か「脳に電極を刺して、脳の働きを調べる」みたいな、なんの具体性もない無知の塊のような救いようのない文章をこしらえて提出したのですが、首尾よく生物系に登録することができました。その時私は、「全然勉強しなかったにもかかわらず、激烈()な競争を勝ち抜いて生物系に登録できたオレって意外とやるやん」と内心ほくそ笑んでおりました。後年ある先生にその話をしてみたところ、「〇〇くん、それは違うで。希望者が定員をだいぶ上回っても、レポートを提出させたら、提出数が定員を上回ることはないので、レポートの中身を見る必要はないんや。〇〇くんの年も、たしかレポート出した人が少なくて、(定員オーバーしてたのに)二次募集したんやw」と言われ、穴があったら入りたくなったのでした。
 ちなみに現在は、機械学習などのブームのためか、数学系が人気で生物系は定員割れなのだそうです。

平成にあった「昭和の大学」の墓標 6 夢 with you

 私が大学に入った頃にはもう退官されていた森毅先生(亡くなられましたが・・)は、答案用紙を紙飛行機にしてよく飛んだものが点数が高かったとか、数学の試験が「カレーの美味しい作り方」だったとかの伝説がありました。私もそのレベルではないですが、いかにも昭和なプチ伝説をいくつか体験することができました。それらを紹介しようと思いますが、今の諸ルールやコンプライアンス的なことを考えると引っかかるところについては、全て「フィクション」ということにします。
 もう一度書きますが、今回の内容はフィクションです。

 

一般教養科目
1 1000人乗っても大丈夫
 このシリーズの3回目に書きましたが、私が学生だった頃の京都大学は、多くのコマを自由に好きな授業で登録することができました。そして、結構な数の学生(含私)が単位認定の甘さ(だけ)を求めて登録しようとするので、「人気授業」は大変な登録希望者数になってました。その場合の対処は、全員受け入れるか、初回授業で抽選するかでした。私の知る限りでは、少なくとも2つの授業がそれぞれ1000人以上の登録者を全員受け入れていました。もちろん1000人入る講義室はありませんでしたので、登録者の大多数は一度も授業に行くことなく、レポートだけを提出します。そのレポートは「これを書けば必ず合格する」という内容(呪文)が口コミで知られており、それを書いて提出した学生が多かった(ほとんど)と思われます。大量のレポートをどのように確認・採点していたのかについては、想像はできますが書くのは控えておきます。

2 大抽選大会
 私が2回生になったときに、英語のD先生は必ず単位をくれるという情報をゲットして、その授業に登録希望を出しました。例年は500人位の希望者に対して、大講義室でじゃんけん大会をして100人程度まで絞っていたようでしたが、その年はパソコンを使った授業をするため、50人程度しか受け入れができず、登録希望のために提出したカードを使って大抽選大会が行われました。旧教養部で一番大きな講義室が希望者でギッシリになり、抽選大会が始まりました。「学籍番号xxxの〇〇さん、前に来てください」「ウオオオオー!(ガッツポーズ)(まわりは拍手)」みたいな謎の盛り上がりの一大イベントとなりました。倍率10倍以上の厳しさでしたが、私は運良く30人目くらいに当選し、とっても嬉しかった記憶があります。おもしろいことに、抽選(かじゃんけん)になるのがわかっているにもかかわらず、初回の授業にすら来ない人がけっこういまして、その人達は、名前が読み上げられても当選無効になっていました。

3 前半後半制
 これも2回生のときですが、ドイツ語はK先生の授業がもっとも単位を取りやすいと聞いて、即座に登録希望を出しました。初回授業に200人位集まったので、抽選かと思われて緊張感が教室に満ちましたが、K先生は「抽選にするのもかわいそうなので、半分に分けることにします」と言われて、一コマ90分を45分ずつに分けて半分ずつの人数で授業することになりました。その瞬間、満員の教室が興奮のるつぼに・・・ その授業は一限でしたので、6割くらいの人が後半を希望して、先に帰っていきました。私は朝に弱かったにもかかわらず、なんとなく前半組として教室に残っていました。そうするとK先生は「早い方を選んでくれた人たちにはサービスとして、前半は30分授業とします」と言われて、前半は一限の15分遅れで授業開始で30分で終わることになりました。
 この寛大な処置に感動して、一限の授業では唯一半分くらい出席したと思います。K先生はサッカー大好きでしたので、授業中にワールドカップの勝敗予想があり、予想的中すると点数アップとかいろいろあって楽しかったです。


専門科目編
4 はくしはやめて〜
 理学部の専門科目では「xxxx」という授業が一番甘く、とにかくテスト受けたら単位が出る、と聞いて、試験だけ受けに行きました。理学部の一番大きな「犬講義室」(入り口の大講義室という札に落書きされて大が犬になってたので、みんな「犬」と呼んでました)に行くと学生で満員になっており、先生と補助の(たぶん)大学院生が頑張って解答用紙を全員に配っていました。試験開始前にその先生は「白紙だと点数をつけられませんので、とにかくなにか書いてください!!」と注意をしていました。試験時間は90分位だったと思いますが、私を含む多くの学生は「なにか」を書いて早々に退室していったのでした。

5 ノーベル賞
 私が卒業後にノーベル賞を受賞された某先生が担当の「物理数学」はレポートを出せば確実に単位が出ることで知られていました。授業期間が終わると某先生のオフィスの扉に印刷されたレポートの問題が置かれていました。その問題は4問くらいから1問選択して解答するようになっており、一問を除いては(おそらく)物理数学の難問で私なんぞにはなんのこっちゃでしたが、最終問題は「物理数学について思うところを述べよ」のような答えやすい問題で、私もこの問題に「解答」して提出しました。 某先生はノーベル賞受賞後のインタビューで、バカな学生のレポートを読む時間は研究時間の浪費になるので読まずに単位認定だけしていた(大意)、と答えておられたので、私のレポートもそういう感じに処置されたのだと思います。ここでいう「バカ」というのは才能の話ではなく、努力をしていない、という意味かと思います。

6 笑うための才能
 大学入った頃にとある先輩に「せっかく理学部に入ったんだから、佐藤文隆先生の宇宙物理の講義は受けておくべきだよ〜」と言われて、一度授業に行ったことがあります。大変な人気講義で犬講義室がほぼ満員の120人くらいが受講していたと思います。難解な数式の展開が続く授業でしたが、途中で佐藤先生が「これはおもしろいですね〜フフフ」と笑われました。120人中最前列の5人位が同じタイミングで笑っており、次にその後ろの10人位が遅れて笑っていました。その他の100人(含私)は何がおもしろいのか全くわからず、「・・・」といった感じでした。スゴイところに来てしまったと、感銘を受けて帰ったのを覚えています。

7 集中力の限界
 これは私が専門課程に進んだ3回生の時の話ですが、地質学の名物教授だったS先生の授業を受けに行きました。その授業は一限で眠い目をこすりながら出席したのですが、初回の授業はS先生が「私は集中力が60分しか持たないので、次回から15分遅く始めて15分早く終わります(一コマ90分なので)」と言われて、数分で終わりました。 実際、2回目以降は60分授業だったのですが、進化と地質と分子の話などを絡めた講義はとても楽しかったですね。

 

 最後にもう一度書きますが、以上の話はフィクションです。

平成にあった「昭和の大学」の墓標 5 めぐりあい単位

 ここでは、私を含めた無気力学生がどのようにして(努力することなく)必要な単位を揃えようとしていたのかを紹介します。

1 虎の巻と口コミ
 入学式などで、クラブ・サークルの勧誘や不動産屋のチラシの他に(たしか)生協が作っていた授業ごとの単位の取りやすさをまとめた「虎の巻」を入手できました。ただ虎の巻に書いてある内容には間違い(というか評価の個人差だと思いますが)もあり、インターネットもまだまだ未整備でしたので、口コミ情報がやはり一番信用できました。私のような学生が求めていた授業は、
1 出席を取らない
2 期末試験か(短い)レポートで一発評価
というものでして、今の多くの大学生の嗜好とは真逆ではないかと思われます。要するに過程ではなく、結果のみを(ごくごく甘く)評価してほしいという考えのもと、とにかく学校に行かずに単位を揃えようとしていました。私に関して言うと、バイトやサークルなどに力を入れていたわけでもなかったので、今となってはどうしてそこまで授業に行きたくなかったのか、正直わからないところもあったりします。ですが、このような思考の学生は当時はけっこうな割合でいたので、一部の「人気授業」(=単位認定が甘い授業)は激烈な抽選を勝ち抜かないと登録できなかったりしたのですが、そのへんのエピソードは次回に。

 

2 授業のノートを借りてコピーする
 この戦略(?)は古今東西どこの大学でも行われてると思いますが、私の場合はほぼ全く授業に行っていない状態で、試験前の授業に突然来て、それまであんまり話したことない真面目な学生にノートをねだるという、give and takeならぬtake and takeの行為で、当然ノートを貸してくれないことも多々ありました。で、ノートが借りられた場合は、コンビニでコピーすると一枚10円位かかるので、一枚5円前後でコピーできる「コピー屋」と言われるところに行きました。京都大学周辺にもコピー屋が当時5−6軒(もっと?)あったと思いますが、そのうちの一軒は「グリコ・森永事件」の脅迫状が印刷されたことで有名でして、そこに初めて行ったときはなんかドキドキしました。
 ノートをコピーするのはいいのですが、印刷しただけで満足して、そのノートを見ることなく試験を受けることも多く(というかほとんど)て、いろいろ面倒なので、一回生の後期からはノート借りることもしなくなりました。そうすると、ますますどの授業の単位認定が甘いのかという情報を入手して、その授業をとにかく登録するという戦略一本でがんばることになります。

 2回生になったときに親から電話がかかってきて「いろんな授業で教科書買わなあかんやろうから、今月だけちょっと仕送り増やそうか?」と聞かれたのに対して、「どのみち授業行かへんから教科書も買わへんので、増やさんでいいわ」と正直に答えて実家の家計を助けたことはいい(?)思い出です。両親は、周りの人から理系の大学に行くと授業がたくさんあって、教科書代だけでバカにならないとだいぶ言われていたようです。

平成にあった「昭和の大学」の墓標 4 鳴かぬなら自分で決めよう時間割

 私が大学に入った頃は、いわゆる「教養部解体」が行われたあとでして、1−2回生の間にかつて「一般教養」と呼ばれた授業(単位)と共に学部提供の専門の単位もいくつか取得するシステムとなっていました。当時の京都大学理学部では、一回生の語学といくつかの理系一般教養科目は(合計週10コマ弱だったと思います)時間割が事前に決められてましたが、一回生時の他のコマや二回生以降はすべてのコマを自由に選べました。なので、ゴールデンウイーク明けくらいに、どの授業をとるのか時間割を提出することになっていました。全ての時間割が決められている高校からの落差が激しいのと、授業の登録についての大学からの説明があまり丁寧でないため、毎年少数ですがそこそこの学生が時間割を登録しないといけないことを知らず、(単位取得の面で)一年間ほぼ棒に振るという憂き目にあったりしていました。

 で、一回生だった私(と他の意識の低い学生)はどうするかというと、
1 時間割の空きコマをすべて、口コミや「虎の巻」で単位取得が容易らしいとの情報を得た(旧)一般教養科目で埋めて登録
2 授業期間を無為に過ごす
3 試験日程やレポートの内容・〆切が発表されたら、(極小の)やる気が続く範囲で、試験を受けたりレポートを出したりする。私の場合、登録した授業のうち試験を受けるかレポートを出したのは、半分弱だったと思います。
4 結果に一喜一憂する
という感じでした。

 ここで、注意深い人ははじめのパラグラフに「(1−2回生の間に)学部提供の専門の単位もいくつか取得する」と書いてあったことに引っかかると思います。上記の行動パターンには、専門科目の登録に触れられておらず、登録コマはすべて一般教養科目で埋めていることになっています。
 そのカラクリ(?)は以下のようになっていまして、
1 理学部の専門科目は(実習や演習を除いて)「履修登録」というシステムがなく、試験を受けたりレポートを提出すると、その授業に登録していたことになる。
2 その「登録していたことになった」コマに一般教養の授業を登録していても、指摘もされず、問題にならない。
3 同一コマに授業のある複数の専門科目の試験が別日程だとすると、両方の試験で合格点を取れればどちらの単位も認定される。
ということでした。つまり、同じコマに一つの一般教養科目と複数の専門科目を「登録」することができるため、原理的にはコマ数の数倍の単位をとることができました。そのため、カリキュラムが「厳しく」なる前の理学部では、入学後ほぼ取得単位がゼロだった学生が突然覚醒して、一年間に卒業に必要な単位を全部揃えて卒業する、みたいなことがままあったようです。

 また、理学部の専門科目はいちおう「〜年生向け」という表示がありましたが、何回生でもどの授業も取ることができました。全く大学生活にやる気のなかった私ですが、浪人中に立花隆さんの「サル学の現在」を読んで感銘を受けていまして、チンパンジー研究で著名な西田利貞先生(亡くなられましたが・・)の3回生向けの専門科目「人類学」だけは、一回生のときにほぼ授業に出席し試験も受けて「優」をとったのが、学部時代の勉学面での唯一の自慢です。当時はサル学を研究したいと夢想していたこともあり、この授業は本当に楽しかったです。

 

サル学の現在 下 (文春文庫)

サル学の現在 下 (文春文庫)

 
サル学の現在 上 (文春文庫)

サル学の現在 上 (文春文庫)

 

 

 次回は、私のような無気力学生が単位を取得するためにどうしていたかを書こうと思います。

平成にあった「昭和の大学」の墓標 番外編 学部の愛称(?)

私が学生だった頃、京都大学の学部で愛称があったのは(筆者調べ)

理学部:就職ムリ学部

工学部:おとこう学部

経済学部:パラダイス経済学部(通称パラ経)

法学部:あ法学部

他にもあった気がしますが、思い出せない(よる年波